
| やはり新境地 |
■読まないでくださいッ の応援レビュー 僕もシュールな漫画を描いて、「何を考えてそういうの描くの」って謂われます。カオスだとか。そのあたりの話をしてみたいと思う。 徳南晴一郎という作家が居ます。もう引退されましたが、「怪奇人間時計」「ひるぜんの曲」など、硬質かつ神経質的な不条理漫画を描かれた作家です。 日本のカフカのような作家で、不条理漫画を描く方は、稀に、神経を病む/病んでいた事が多い。徳南さんの作品は、ベルクソン「笑い」の法則である「機械人形を思わせるような動き」「典型的な人物を描画する」に拠っているかのような作品でもあります。 アンチ・オイディプスなどでも明らかになったように、そういう神経質的/分裂病的な世界というのは、どうも、資本主義の過程で生まれたズレのようなものであるらしい。 ただ、ドゥールズ=ガタリにしても、マルクスを父とする。マルクスの父はへーゲルなわけであって、本当の哲学的文脈は、マルクス及びヘーゲルに拠らなければならない。 その視座から不条理漫画を見ると、あたかも、近代/資本主義への抵抗としての不条理、という位置付けがある。資本主義とはインプット=アウトプットの考え方を基礎にしている。最近ではSEOの効果測定などがそうだ。 しかし、I/Oパラダイムは続いている上に、不条理というのもジャンルとして成熟し、手法も試されてきた。文脈としては近代の反抗であった(かも知れない)不条理は、それそのものが楽しまれるようになってきたのである。 そうなると、不条理に必要なものは、描き手にとってはセンスしかない。センスだけが品質を左右する。面白い不条理とつまらない不条理の違いが決定的でなくセンスに拠るのは、やはり、不条理そのものが、時代の要請に拠るものである上に、無関係にセンスまで必要とされるからかも知れない。 かように、不条理の解明は循環論法のようになってしまい、まるで不毛のようだ。いや、寧ろ、お笑いというものは、不条理に限らず、循環論法や(詭弁で)語り続けるべきものなのかも。面白さには理由はないので、詭弁で説明するしかないのかも。 |
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